- 宗教を信仰している人
- 幸せの本質を考えたい人
- 信仰している人の気持ちを知りたい人
本記事ではこのような方々にオススメしています。
人生に光を!ヘルメスLIFEへようこそ。
人は、誰しもが幸せになりたいと思って生きています。その幸せを求め行き着いた先が信仰の世界と言えるでしょう。
信仰をするきっかけとしては、
- 「たすからない命が信仰によりたすかった」
- 「教えが魅力的だった」
- 「親が信仰していた」
などありますが、結果としてはその宗教に幸せがあると思うからこそ人は信仰しています。
しかし、信仰している人はみんなが幸せを感じているのでしょうか?
このテーマはなかなか難題ではありますが、考えていく価値は十分にあると考えています。
幸せは、人によって形は違いますが、共通して言えることは「今の現状に満足しているかどうか」だと思います。つまり、心が満たされている状態ともいえますね。
目的を達成し「私はいつ死んでももう満足だ」と思えている人は十分幸せでしょう。あるいは、「この状況が永遠に続くといい」と考えている人もいるかも知れません。
では、信仰者には常に心が満たされている状態で何にも欲がなく常に幸せなのでしょうか?
本記事では、この疑問に追求するために以下のようにまとめました。
- 信仰している人の心理
- 信仰は囚われているのか?
- 信仰者は幸せなのか?
この3つの疑問に対して答えます。
それでは早速いきましょ。
信仰している人の心理
信仰者は、誰しもが「この神様こそ世界の核心であり絶対的な正しさなのだ」と思っています。
だからこそ、信仰者の価値観はその宗教の教えそのものになっていることが多いでしょう。
貧しい人にお金を渡すことの正しさを説いている宗教を信仰している人は、人に優しくするというのを第一の価値観として歩んでいる人が大半です。
また、祈る大切さを説いている宗教なら、信仰者はそれを第一の価値観としているでしょう。
では、その宗教を信仰している人はみんな同じ性格になるのか?と問われればそれは違います。
なぜなら、通ってきた人生も性格も違うからです。
例えば、同じ映画を100人が見て、それぞれの感想を聞けば全く違った答えが返ってきますよね。
「あの名言が良かった」という人や「あのシーンが良かった」という人がいたり、また「全然面白くなかった」という人もいるかも知れません。
人は同じものを見たり聞いたりしても、それをそれぞれが違う捉え方をしているのです。
宗教の教えを学んでも「私は教えのこの部分に救われた」とか「この神様の言葉が私の大切にしていること」などを考えている人が多いです。
「この宗教は正しい」という価値観は同じでもその教えの魅力を感じている場所は人それぞれということです。
だからこそ、万が一「お金儲けは良くない」と考えている宗教があればビジネスマンに疑問を感じる人はいるかも知れません。これは例えの話ですが。
でも「ユダヤ教」や「キリスト教」や「イスラム教」は偶像崇拝は禁止していますよね。だからこそ、仏像や神仏などはかなり否定対象にあります。
他の宗教によって正しさが違うからやっかいですよね。それが火種で宗教戦争なども起こっていますね。
キリスト教の中でも「カトリック」と「プロテスタント」に分かれ、かなり差別的な歴史もあります。
その宗教は正しいと感じるのは素晴らしいことかも知れませんが、その宗教のために他の宗教を批判するのは何か違うような気もしますね。
逆に、無神論者からすれば、自分の経験や学んだ道徳感が基準になっていると思います。
そこが、信仰者と無神論者の違いですかね。
つまり信仰者の心理は、神様の教えが絶対的だと強く思っているのです。
信仰は囚われているのか?
信仰者は「自分の歩み方を神に委ねている」と言えるでしょう。言い換えれば、「自分の歩みは神様のために尽くすことだ」ということですね。
そう考えたら、信仰していない人からすれば「囚われていきていない?」とか「自由ではないね」などの意見があると思います。
確かに、信仰者は自由には生きていないです。
断食の教えがあるなら、それを正しさと思い断食をするでしょう。そして、神様の祈りを一生懸命するでしょう。
しかし幸せの感じ方も、人それぞれなので自由に生きるのが幸せだという人もいれば、神様の信仰が幸せと感じている人もいます。
人から見て囚われていると思うかも知れませんが、信仰者にとってはそれがある意味の自由かも知れません。
教えがなければ、自分の中での価値観が見つけられず、本当の正しさがわからなくなり逆に自由でなくなってしまいます。
だからこそ、信仰者にとっては信仰することが自由なんです。
信仰する自由と信仰しない自由があることは、なかなか矛盾する結論ですが、これが正しい答えかも知れません。
人によって「自由の価値観」も違うということですね。
では、自由である信仰者は幸せなのか?という問いを最後に解説していきます。
信仰者は幸せなのか?
結論から申し上げると、幸せな人もいれば幸せでない人もいます。曖昧な答えかも知れませんがこれが結論です。
ではなぜ、信仰している人も幸せではない人がいるのか?
その主な原因は、「組織」にあります。
素晴らしい教えだからこそ人が集まり、人が集まるからこそ宗教は組織化していきます。
教えはその組織の中核ですが、組織を運営しているのはあくまで人なんです。組織を継続させるにはお金も人材も必要ですよね。
だからこそ、少し教えと違ってもそれをやらざるおえない状況になったりもします。
教えに忠実な人からすると、組織自体に不満をもったり腹が立ったりしますよね。しかし、組織なので上の決定は絶対なのです。
ここも会社と少し似ていますよね。
会社も宗教団体も魅力だからこそ人が集まり、組織化すると組織の仕組みは大半同じです。そして組織化すると大半不満を持った人が出てきます。
自分の思う教えと組織の動きのずれが不満にさせている要因なのです。
歴史の中での事例を見ると、キリスト教の中での免罪符に該当するでしょう。
カトリックは、お金稼ぎのために罪がなくなるお札を売ってしまいました。信仰を利用したビジネスみたいな感じですよね。
信じる心と信じたものを実践するからこそ罪が償われる教えの中で、お札を買うと罪がなくなる言われてもそれを不安に思う人は絶対出てくるはずです。
免罪符で不安を持った代表と言えるのが、あの有名なルターです。
後にルター派と言われる人が出てきて「プロテスタント」が誕生するのです。
全てを素直に受け入れろって言われてもそれぞれの意見を持った人なんで、なかなかできるものでもありません。
信仰者を幸せにしているのは、神様の教えであってもそれを妨げているのは、団体組織ということです。
幸せもなかなか難しいですね。
あなたも何かの信仰をしていてさわせになりたいのなら、組織の動きはあえて見ないという方法もあります。しかし、そんなことなかなかできないですよね。
信仰は自分の心にあるものなので、組織なんか関係ないと思うのもいいかも知れません。常に教えの核心だけを見て、正しさの追求をしてみるのもいいかも知れませんね。
おわりに
信仰者も、なかなか大変ですね。幸せになりたいというための信仰が、組織によってそれができなくなってしまうのですから。
しかし、信じているものが変わらない以上、私の中では組織の動きについていかなくても信じることはできると思います。
これはあくまで私の個人的な意見ですが、不満や自分に合わないと感じたら、いちご外に出てみて客観的にその組織を見るのもいいかも知れません。
何か別の見方もできるかも知れないですし、できなくても外から神様を信じることもできます。
私が思う信仰は、組織に属さなくても神様のために尽くす心を忘れなければ、それは立派な信仰者です。
組織に囚われなくてもいいのかも知れません。
別に、『幸せの見つけ方』という記事も書いているのでぜひご覧ください。
https://hermes-life.com/howtofindhappiness/
あなたの人生に光を!ではまた
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